1998年の冬、ハンガリーのモータージャーナリストのガボル・ヴェーバー(Gábor Wéber)はその年発売されたばかりのGrand Prix Legendsに出会った。

それまでヴェーバーがプレイしてきたレースゲームとは次元の違う圧倒的なリアリズムに、他の多くのプレイヤーと同じくヴェーバーも最初は打ちのめされた。

しかしヴェーバーはすぐにモータージャーナリストとしての自身の知識・経験がこの仮想グランプリに生かせることに気が付いた。
キーボード操作からハンコンでのプレイへと移り、またこれまでの知見に基づいてセッティングを変更すると、その考えが誤りでなかったことがわかった。

 

しばらくは一人でプレイしていたヴェーバーだったが、1999年からは週に一度仲間内でパソコンを持ち寄ってのLAN対戦を始め、2000年になってからはオンラインの対戦へと歩みを進める。

対戦相手がAIドライバーから友人、友人から全世界の猛者へと変わっていってもヴェーバーは強さを発揮し続けた。
ヴェーバーの名前はGPLのコミュニティに轟いていった。

 

ヴェーバーのGPLでのキャリアのハイライトは2001年、大手レースシムサイトSim racing Mag(リンク切れ)の主催する招待制の非公式世界大会”SimRacingMag World Championship”での成績だろう。
この大会にてヴェーバーはTeam RedlineのGreger Huttuとの熾烈な争いを制してチャンピオンに輝いた。

 

また余談ではあるが、オンラインではなくLAN対戦においてもヴェーバーはさらにハイレベルな相手との戦いに身を投じていた。

2001年の1月にオランダで開催されたGPL LAN European Championshipというオランダの大会にヴェーバーは参加した。
このイベントは”European Championship”を名乗るだけあり、開催期間は2日間、観客は50人程を集めるなかなか大規模なものだったようだ。
Hyperstimというコクピットを用いニュルブルクリンクで行われた決勝レースでヴェーバーは3位に入賞した。ちなみに優勝したのは地元オランダのNiels Heusinkveldだった。

 

世界一となったのと時を同じくして、ヴェーバーはGPLのハンガリー国内リーグの立ち上げにも携わっている。

意外にも思えるが、2001年当時のGPLコミュニティにおいてハンガリー人はちょっとした勢力であったらしい。
絶対的な人数こそ少ないもののそれぞれのレベルは非常に高く、逆に人数の多いフィンランドのような国よりも(当時最大のGPLコミュニティであるVROCでアクティブだったフィンランド人は90名ほどで、これはハンガリー人の約8倍だった)平均的なドライバーのレベルは上回る、まさしく少数精鋭と言うべき一団だった。

 

そうした背景がありながら国内リーグが無かったのはいささか不可解ではあるが、原因は主に通信回線の問題であったらしい。
1990年代後半当時のハンガリーにはまだISDNが十分に整備されておらず、満足にオンライン対戦ができる環境にはなかった。
ヴェーバーがGPLに初めて触れた1998年からすぐにオンライン対戦を始めなかったのも同じ理由からである。
21世紀に入りようやくISDNがハンガリーでも整備され始めハンガリー国内リーグ開始の準備が整ったということだ。
ともあれGPLハンガリー国内リーグ、Hungarian GPL Mastersは幕を開けた。

 

最初は人数が少なかったため外国から招待ドライバーを入れての開催だったが、回を追うごとにリーグに参加するハンガリー人は増えていった。
ヴェーバーはこのHungarian GPL Mastersで2001年に開催された2つの選手権でチャンピオンに輝いている。

 

この後ヴェーバーは2002年のオペル・アストラカップ参戦を皮切りに実車でキャリアを積んでいくことになる。
3歳頃からレーシングカーの絵を描いて遊び、小学校に上がる頃には既に熱狂的なF1ファンとなっていたヴェーバーにとって、レーシングドライバーになるというのはもちろん願ってもないことだったが、GPLでの成功はヴェーバーのもうひとつの夢をもまた叶えたのだった。

 

その昔、ヴェーバーはハンガリーの公共放送のスポーツチャンネルTelesportで社会人としてのキャリアを始めていた。
幼い頃からモータースポーツが好きだったヴェーバーは当然F1の担当を希望するが、当時のハンガリーでF1の人気は高くなく、希望していた仕事は与えられなかった。

ヴェーバーはそれを「時期が悪い」と表現している。F1の解説者になるとしてスポーツチャンネルは誤った選択ではなかった、ただ時流がまだついてきていないだけなのだ、と。

程なくしてヴェーバーはTelesportを離れ、ハンガリー初の自動車ラジオ番組の立ち上げに関わることになり、モータージャーナリストとしての道を歩んでいく。

 

2002年8月。ハンガロリンクにてハンガリーGPが開催された。
1986年から始まったこのレースは17回目を数え、すっかりハンガリーの一大スポーツイベントとして認知されていた。
そのテレビ中継に、解説者としてのヴェーバーの姿があった。
『シミュレーターレースの世界チャンピオン』という肩書を持って。

 

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2002年8月。ハンガロリンクにてハンガリーGPが開催された。
1986年から始まったこのレースは17回目を数え、すっかりハンガリーの一大スポーツイベントとして認知されていたこのハンガリーGPのテレビ中継を、ある青年が自宅で視聴していた。

 

画面では見慣れない男性が解説者として紹介されている。
ガボル・ヴェーバー。……『シミュレーターレースの世界チャンピオン』?

この聞きなれない言葉が青年の興味を引いた。

さっそくググってみると情報はすぐに集まった。Grand Prix Legendsというシミュレーターで世界一となったのだという。

ヴェーバーについてしばらく調べた青年はGPLの購入を決意した。より正確に言えば購入のための貯金を始めることを決意した。

青年――ノルベルト・ミケリス(Norbert Michelisz)18歳の夏。この18年後に自身もまた世界チャンピオンになることなど、この時は想像すらもしていなかった。

 

GPLを入手し早速プレイを始めたミケリスだったが、やはり彼もGPLのシビアなシミュレーションの洗礼を受けた。

一人で走り込んで記録したまあまあ自信のあったタイムが、インターネット上で確認できる他のプレイヤーのものからは3秒以上も遅れていたのだ。

だが幸いにして、この体験はミケリスのモチベーションとなった。
練習を重ねた2003年6月、満を持してHungarian GPL Mastersに参戦したミケリスはデビューレースを勝利で飾っている。

 

ミケリスがHGPLMにおいて台頭するのとほぼ同時期に、ヴェーバーはHGPLMから姿を消し始めている。

2002年にオペル・アストラカップに参戦したヴェーバーは翌2003年にルノー・クリオカップへとステップアップし、そこで11戦10勝(2位1回)という圧倒的な成績を残している。この現実世界での成功は少なからずGPL離れに影響を及ぼしているだろう。

結局、記録に残っている限りにおいて、ミケリスとヴェーバーがHGPLMにおいて同じレースで戦うことはなかった。
ヴェーバーに導かれGPLの世界へと飛び込んだミケリスはヴェーバーのいないGPLの世界で戦い続け、2004年に開催された2つの選手権でチャンピオンとなった。

 

2度目のチャンピオンとなった後、ミケリスのHGPLMでの活動は実質的に終了する。
それまでにミケリスの残した成績は出走34回に対し、勝利18回(52%)、ポディウム24回(71%)、ポール24回(71%)、ファステストラップ20回(59%)、ハットトリック15回(44%)。

 

GPLではヴェーバーに出会えなかったミケリスは、その後別の場所で出会うこととなる。

2005年9月、ハンガロリンクでのクリオカップのテストの場にミケリスとヴェーバーはいた。

HGPLMでのミケリスの圧倒的な成績を目にしたヴェーバーが、新しいドライバーを探していた所属チームZengő Motorsportのオーナー、Zoltán Zengőにミケリスを推薦したのだった。

ヴェーバー以外のクリオカップレギュラーも参加していたこのテストで、ミケリスはレーシングカーに乗るのはこの日が初めてだったにもかかわらず、ヴェーバーから0.2秒落ちの2番手タイムを記録した。

この結果を受けてミケリスは翌年のスズキ・スイフトカップのシートを勝ち取り、それからツーリングカーのピラミッドを登り始める。

そして、2019年には頂点へと辿りつくこととなるのだった。

 

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Esports WTCR 2020 第1戦において、ノルベルト・ミケリスは他のWTCR現役ドライバーと同じく下位に沈んだ。
シミュレータ経験がほとんどないドライバーならともかく、レースシム上がりのミケリスはもう少し上にいてくれるのではないかと期待していた私はこの結果に少し落胆した。

 

しかしその一方で、このレース結果の中に、期待通りと嬉しくなったこともある。
レース1の勝者はGergo Baldi、レース2の勝者はZoltan Csuti。共にハンガリー人だ。
今なおハンガリーは宇宙人を特産とするレースシム大国なのである。